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その日考えたこと、昔から考えていることを

「教養」とは何か

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皆さんは「教養がある人」と言われた時、どのような人を思い浮かべるでしょうか。

知識がたくさんある人、頭がいい人、いろんなことに精通している人、難しいことを知っている人…いろいろだと思います。

 少なくとも、今から50年前であれば、その認識は正しいと思います。

教養のいま

けれども、今は少し事情が違います。一般に与えられる情報量が限られていた50年前ならいざ知れず、現代はインターネットの力でどこにいても、誰であっても、広大なネットの海に広がる「情報」を手にすることが可能です。

もちろん、ネットに漂う情報は「最大公約数」のものです。間違いだって多く存在します。

しかし、調べ物をする程度でしたら、最大公約数の情報で十分だと思っています。

Googleの検索の精度はかなり高いレベルに達しています。さらに、人工知能が発達してくれば、正しい知識を所有する・弾き出すという点においては確実に人間は負けます。(もう既に負けてます)

もはや 知は力ではない

私が言いたいのは、知識は必要ないとか、そういうことではありません。

もっといえば、誰でも情報にアクセスが可能となった現代においては知識は「持っていて当たり前」だと思っています。

これからは、知識の情報量を価値として重きをおくのではなく、その知識の引き出しの多さ、それ同士の「マッチング」がいかに上手くできるか、にかかってくると思います。

現代においてはもはや「知は力」ではないのです。

私は、「教養がある」状態というのは、自分が社会の中でどう在るかを認識できていることだと考えます。

阿部謹也氏の著書『日本社会で生きるということ(2003)』にはこんな記述があります。

 教養とは一人ひとりが社会とどのような関係を結んでいるのかを常に自覚して行動している状態を言うのであって、知識ではないのです。

  つまり、 自分の持つ力でいかにそれが他にとって価値をもたらすことができるのかを自覚できている状態ですね。

盲目的に知識を所有しているからすごい、と言うのは終焉を迎えた気がします。 

この記事で一番言いたいのは、誰でも情報を手にできるようになった時代に、「学問」は何ができるのかと言うことです。

大学に通っていると、どうしても「知識」の範囲から出ないのですが、それでは「大学」そのものの価値も意味がないものとなってしまうのではないでしょうか。

 

私は、学問の強みは「長期的な視野・広い・深い知識」にあると思っています。これは、ネットには転がっていない力です。

その力を知識同士の「マッチング」能力に生かしていくことが、これからの学問、延いては時代に必要な力だと感じています。

私は、学問にしかできないことがあると思っています。

特に昨今、人文社会系というのは実学的な理系の学問と比べて軽視されがちです。

そこには、人文社会系の扱う内容があまりにも「現実」とかけ離れているからだと思います。

よく、「哲学で飯は食えない」なんて言われてしまいますが、いかに難解なフランス哲学を解釈する力があったところで、関係ない人からすれば「何それ?そんなこと考えてなんか意味あんの?」な訳です。

それを「わからんやつめ!」と切り捨てるのではなく、関係ない人にも自分が感じるその学問の意義を相対化して伝える力が必要だと思います。

さもなくば、人文社会系の学問は衰退の一途を辿ってしまうと危機を覚えます。

 

なんだか、長くなってしまったので、今日はこの辺にしときます。難しくなっちゃいましたね。

あとでもっとわかりやすくまとめます。

とりあえずここまで。

日本社会で生きるということ (朝日文庫)

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「教養」とは何か (講談社現代新書)

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「世間」とは何か (講談社現代新書)

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教養論ノート (リーダーズノート新書 S 302)

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